無料記事, 非会員向け

コロナ感染症問題の議論のどこが間違っているか 加藤諦三先生のコラムより

コロナ感染症問題の議論のどこが間違っているかhttps://www.katotaizo.com/column/2020-08-11

 加藤諦三先生のコラムを紹介し、僕も少し意見を書きたいと思う。

 このコロナ禍の問題について、加藤諦三先生が現代社会人が考えるべきことについて書かれているので皆さん是非読んでいただきたい。

 内容については僕は全面的に賛同であるが、個人的には教授のお考えを目にし、安堵した。
 加藤諦三先生の考えを聞くと、いつも安心する。

 僕も僕なりに考えて意見してきてはいるが、こうして師の考えを知るにつけ「よかった」と安心する。

 僕が悩んでいる人の意見をそのまま考え始めてしまい、理解不能であった瞬間、横から「僕たちが正しいんだよ」と声をかけてくださったことを忘れはしない。

 やっぱり、これでいいんだ。とほっとした。

 今回もそんな気分である。

 そして、今回の文章を読んで気になった点があった。

 動物の親子はじゃれ合う。
 動物は全部じゃれ合う。ライオンも、犬も意味もなく親が子どもと戯れている。
それがふれあいである。
 親子でじゃれている。
 コロナ感染症の時代はなによりも子ども同士もじゃれあわない。子どもが子どもを嫌いになる。


 動物は全部じゃれ合う。ライオンも、犬も意味もなく親が子どもと戯れている。

それがふれあいである。

 親子でじゃれている。

 コロナ感染症の時代はなによりも子ども同士もじゃれあわない。子どもが子どもを嫌いになる。

 今の日本は親が子どもと戯れてくれなかった。

 ふれあわない。

 この一文である。

 ふれあい。

 「じゃれている」

 そうか、あれは「じゃれている」なのか、と気づいた。

 僕は娘とじゃれる。毎日やっている。意味もなく帰ってくれば抱き合ったりくっついたりする。

 ソファーで一緒に動画を観ている時も、じゃれる。

 友人の子が泊りに来ても、頭をぐりぐりしたりみんなでくっついてじゃれる。

 恋人がいる時もじゃれる。

 意味もなく抱きしめたりくっついたりする。いたずらをしたり匂いを嗅いでじゃれる。

 それは当たり前だと思っていた。

 以前、毒親たる友人にスキンシップの大切さを話した。

 その時友人は「私も娘と抱き合ったりするからやっている」と言った。

 「ちゃんとやっている」という意味だ。

 それは「じゃれる」ではないのだろう。

 なぜじゃれているのか。そうしたいから。

 神経症の恋人にじゃれようとすると、意地悪をしようとしているとか、そういうことをするものではないとか、批難される。

 そして、「きちんと行儀よく、礼儀正しく、女子にはこうすることが良いこと」を行うよう要求されて、嫌いになる。

 じゃれていないと嫌いになる。

 当たり前だ。

 きちんとしていたら相手を嫌うのは当たり前だ。

 家の中にいて家族を相手にきちんとしている。

 恋人に対して「きちんと女性を尊重した扱い」をするために、親しそうな真似はしない。

 「馴れ馴れしい」ということなのだ。

 神経症の恋人は、恋人になっても馴れ馴れしい真似をされたくない。

 あくまでも他人行儀できちんとした形式ばった関係を続けたい。

 人間が嫌いなのだから、親しみを込めた関係になりたくない。

 そんな人は、簡単に言われなくても「自分のことが嫌いなんだな」とわかる。

 礼儀正しくきちんと良いことをされたところで、じゃれることを嫌うならば相手が嫌いなのだ。

 家族は毎日じゃれている。

 子供は寝る時に布団に転がると、布団を引っ張られて転がり落ちて喜ぶ。

 顔をくっつけて頬ずりすると、ヒゲがいたい!と言って喜んで嫌がる。

 とにかく、一緒にいる時はじゃれている。

 かつてもっと子供が幼い頃に、僕がそうして娘にじゃれている姿を見て母に罵倒された。

 「そんなに大きくなった子供に、何をバカな真似をしているんだ!幼稚園児みたいな真似をするな!」

 とケチをつけられた。

 母の中では「立派な大人」は自分と同じ人間嫌いのことである。

 べたべたしていることは恥である。ふざけていても叱られる。

 ところが母の常識に反して、僕は恋人のスカートをめくって喜んでいるような息子になった。

 「良くないことだ」と思ったであろう。もし知ったならばだが。

 好きな女にはじゃれる。

 だが、嫌いな女にはじゃれない。

 自分を嫌う恋人は、決してじゃれてこない。

 じゃれることもないから、こっちも好きにならない。

 嫌いな女子なら丁寧に丁重に扱う。きちんとした扱いは遠い関係であるか嫌っているかである。

 心理的に遠い関係にいれば、親しいはずの間柄でもきちんとした対応をする。

 人間が嫌いな人は、じゃれることを嫌う。ふざけて遊ぶことを嫌う。

 親しい間柄になるために、セックスすることも義務化したものであり、形だけである。

 それは「親しい関係になりました」と証明するための儀式なので、じゃれることもない恋人や夫婦にとってはただの義務化された作業である。

 ある友人は「子供はもういるから、セックスはする必要が無くなった」と自身の夫婦のセックスレスを正当化した。セックスは子供を作るという必要性の元に行うものであって、友人にとって愛する人と「したくなる」からするものではないのだ。

 セックスをすれば愛し合っているという証明になるのか、と思えば、今度は義務感からセックスすることで「私たちは仲良し夫婦です」と他人に認めてもらおうとする。

 愛し合っている夫婦は成功した夫婦であると思うから、きちんと成功した夫婦であるためにしたいかしたくないかに関わらずセックスもする。

 結婚して子供を作らなくてはならないという義務があるから、好きでもない人と恋人になり夫婦になり、そして形だけは役目をこなす。

 全部やったら嫌いな人とはできるだけ関わりたくないから、家族はバラバラになりたい。

 最低限の部分だけ口を利き、後は自分の世界で一人好きにしていたい。

 子ども時代、夜の寝る時間が来る。母親と一緒に布団にシーツを引いた後で、子どもはシーツの上で飛び跳ねて母親とじゃれる。

 シーツをくしゃくしゃにした後でお水を飲む。

 今は、ふざけることが怒りになる。

 親が子どもと戯れてくれなかった。

 この戯れがないのが「親しくない恋人や家族」である。

 恋人や家族なのに「親しくない」もおかしな話だが、実際そうなのである。

 好きと言いながら、いつまで経ってもきちんと座って行儀よくする彼女がいれば

 「こいつは俺のことが好きではない」

 と即座にわかる。じゃれ合おうとしてもピクリともせず笑っているだけならば、それはただの拒絶である。
 子供は母親にじゃれようとするが、母親はそれに付き合わない。面倒くさそうにする。子供は拒否されていると感じる。

 もし「好きじゃないんだよね」と言ったら「そんなことないのにひどい!」と責めてくる。だから好きではないのである。

 そんなことは当たり前だ、と思っていたが、いつものことながら「何がわからないのか知らない」ので、今回もまた「そうなんだな」と納得した。

 僕は娘といる時間が一番幸せであるが、それは娘とは安心してじゃれ合う関係だからだ。

 学校の友達には「お父さんと仲いいね」とよく言われたようだが、娘はそれが普通だと思っている。
 みんなそんなものだと思っている。

 以前娘が、一人暮らしをしている同僚の家に皆で遊びに行った。

 そしてこう感想を述べた。

 「家に帰っても誰もいないから、仕事で嫌なことがあってもそのまま一人で嫌な気分のまま寝て、また翌日仕事にいくと思うと一人は大変だなと思う。」

 自分は家に帰れば僕がいるから、嫌なことがあっても家で癒されて翌日には持ち越さないけど、家族がいないと嫌なことがあっても一人で悶々としなきゃならないだろうな、と言う。

 その時僕は「家に帰って家族がいても、寧ろいない方がまだマシだと思える家族もいるんだよ。いればいいってもんじゃない。」と教えた。

 僕は娘が可愛いので娘を守って生きている。
 僕が毒親の子で辛い子供時代や親子関係を送ったからこそ、「俺だってやられたんだ!」と母と同じことをしたり、また他人に「お前はいいよな!」とケチをつけられていじめられることのない人生を送ってもらいたいと願っている。

 親子のやり取りは子供の生涯の「当たり前」の基準になる。
 だから親子の関係は大切にしている。

 幸せなだけで恨んでくる人はいる。
 不幸な人は幸せな人も不幸になれば、自分の気持ちがわかると思っている。

 だから人を不幸にすれば、自分が優しくしてもらえると信じている。
 自分の恨みをぶつけたところで、幸せな人は優しくしてくれない。
 それすらわからない。

 お母さんだってやられたんだ!
 どんなに苦労したかわかるか!

 そして人を罵る。そうするとどうなるか。
 ただ嫌われていくだけである。
 だが母はそんな自分を「誰もわかってくれない可哀想な私」と思い込んで亡くなった。

 僕はそんなことをしたら嫌われるだけだと気づき、自分の苦労など特別だと思うのは間違いだ、気持ちの辛さは形ではわからない、と人を知る方向で生きた。

 結果、今の僕の家族がある。
 毎日じゃれていて幸せである。

 これがあるから生きていける、と心から思う。

 しかし、現代の大人は異性にしても大抵の人はじゃれたくない。

 目的が違う。遠くから尊敬される立派な人になりたいだけなのだ。
 じゃれていたら立派なところが披露できない。

 賛辞されることは難しいが、親しくなることは簡単である。
 僕は賛辞されることを諦め、親しくなることを選んだ。簡単な方を選んだからすぐにそうなっていけた。

 能力なら優劣もつくが、親しくなることに能力の優劣は関係ない。

 テストの点数が悪くても、家族は仲良くできる。

 しかし、〇〇家軍に所属する軍人たちは、そうはいかないのだ。

 軍の規律をしっかりと守り、決められた通りの家族を作らなくてはならない。

 立派に作った軍人が優秀な人材として優遇される。

 僕の父はやはり軍人として生きる人であり、母に暴力をふるいあざだらけにするほど殴る人だった。

 それに従い恨んだ母は、負けじと軍人になった。

 僕はそこから脱落し、じゃれあって親しくなる世界に行った。

 それだけである。実際にはじゃれ合う関係になる方が簡単なのだから、どんどん親しくなる友人は増えた。

 親しくなりたい人はじゃれ合うが、認められたい人はそんなことはしない。

 したくない。

 僕が軍人の子として生きていた当時、じゃれ合う友人たちは羨ましく思えた。そして憎らしかった。

 だが、立派な軍人として認められるためには、そんなことは言っていられないのだ。

 親しくなるなどという遊びをしている暇はなく、立派になることだけが全てだったのだ。

 どんどん遠くなる友人たちの笑い声を聞きながら、生涯軍人として競争の世界に行く方向で生きていた。

 ただ、僕はそれなりに軍人として認められ、何よりも愛情不足だったために脱落した。

 自分の思い通りにしたいという願望より、本当に親しくなりたいと言う欲求が勝ったのだ。

 勝ち負けを捨てれば、じゃれ合う関係は作れる。勝ちたいうちはじゃれるなんてふざけたことはできない。

 じゃれ合う仲間がいれば、恋人と破綻しようが、仕事で失敗しようが、生きてはいける。

 何がうまくいかなくても、他がある。

 常に誰かがいる。親しい関係がある。何が消えても残る。

 ある友人は夫が自分を心理的に虐待していると言い続け、離婚した。

 大変な被害に遭っている不幸な人だという顔をして生きていて、当時は滅多に会わないのでそんなに気にはしていなかった。

 夫さえいなければ幸せなのだと豪語した彼女は、「ママと一緒に来てくれる?一緒に幸せになろうね」と娘を連れて家を出たが、実際には親子二人になると娘を殴り、罵倒し、虐待している。

 夫が再婚するとなると、途端に不機嫌になり思春期になってきた子供からも逃げた。

 離婚する前のママは、手間暇をかけた料理をしてくれたと娘は言う。
 離婚した途端にやらなくなったという。夫に見せびらかすためだったのだ。

 もう見てくれる人がいなくなったから、やらなくなったのだ。

 そんなママと娘はじゃれない。
 「ちゃんとやっているから大丈夫」と言う。だからじゃれていない。

 そこにいればくっつきたく「なる」のである。

 だからじゃれている。

 好きだからじゃれる。

 恋人も好きだからじゃれる。嫌いな恋人はじゃれない。

 嫌いなら恋人ではないが、形だけが欲しいから我慢してじゃれない相手と恋人になる。

 子供は母親にじゃれてくるが、一方的に好かれたい母親は子供がじゃれてきても軽くあしらって満足する。

 異性でも似たようなことをする人はいる。
 恋人になっても自分は好かれているんだと感じて劣等感を癒すために、じゃれてくる恋人を相手にしない。
 ただ立派にやっているということを見せつけて、尊敬されようとする。

 自分は好きだと感じさせる行動はとらない。立派な形式だけを実行し続ける。
 じゃれ合うことがないので親しい関係にはならない。

 自分はきちんとしているから、何も問題ないと思っている。
 そして他の異性と恋人がじゃれ合っていたら、「あの人の方がいいんだ」と嫉妬する。
 自分は相手にしなかっただけなのに、相手にしている人がいると「あの人の方がいいんだ」とお門違いなことを考える。

 相手にしないのは自分であり拒否しているのは自分なのに、自分が相手にしない誰かを他の人が相手にしていたら嫉妬する。

 相手にされなくても延々と追いかけ続けてくる人が好き。
 それは親子でも同じである。
 いつまでも拒否しても、何度でも子供がじゃれてこようとするのを見て癒される。

 戯れている仲間たちを見て人間嫌いな人がうらやましいと思うのはおかしい。

 それは矛盾である。

 自分は実際には人とじゃれ合いたくない。

 他人がいたら遠巻きに眺めて評価したい。

 欠点を見つけて優越したいのだから、じゃれたいわけではない。

 人間嫌いという呼び名もおかしい。

 ゴキブリが嫌いな人はゴキブリ嫌いだが、近づこうとしない。

 人間嫌いな人がなぜか人間に話しかける。義務でもないのに。

 ゴキブリと同じなのだから、近づかなければいい。

 人間が嫌いなのに世の中に人間ばかりだから、生きていて辛いのかもしれない。

 心理的に孤立した友人には人間嫌いと自ら言う人がいる。

 人間は嫌いだからペットがいい、とペットを飼う。

 「人間は嫌いだからペットの方がいいんだ」と人間にいちいち伝えに来る。

 嫌いなら来るな。

 寄るな。

 ケチをつけに話しかけに来るな。

 嫌いであっても構わないが、バカにするために近寄るな。

 自分を嫌いな人を好きになる人はいない。

 だから人間嫌いな人は全ての人に嫌われることが既に決定しているようなものである。

 自分が嫌いな生き物に好かれたいと思わない。

 ゴキブリが向こうから寄ってきて癒される人はいない。

 人をゴキブリのように思う人は、人間の恩恵にあずからなければいいのだ。

 何もかも人間が作っているのに、恩恵にあずかりながら嫌いだは傲慢ではなく幼児的な甘えだ。

 「お前らが嫌いだ」と先に言われて誰も話しかけられたくない。

 いきなり攻撃してくる人類の敵になる。

 ゴキブリを見たらいきなり攻撃する人は沢山いるが、ゴキブリから見たら人間は敵である。

 人間を観察してどんなことを企んでいるのか。

 人間が嫌いなのになぜ人間を見るのか。話しかけるのか。

 何を企んでいるのか恐ろしい話である。

 虐げることしか考えてはいない。

 ゴキブリにとっても僕たち人間は虐げてくる動物なのだから。

 しかし人間の世で生きる以上、世間的に許される抹殺方法を考えている。

 粗さがしをしてケチをつけられる理由を探す。

 迫害して排除できる理由を探す。

 ゴキブリが嫌いな人はゴキブリを全滅させたい。

 人間を全滅させたい人は、いきなり話しかけてきてケチをつける。

 敵だからである。

 人間を一層するためにやっている。

 ヒトラーと同じだ。最後には近しい人々も殺し、遠ざけ、自分が選んで母の身代わりと共に震えている。

 人間嫌いは多いが、ヒトラーほどになれる人が少ないだけである。

 友人は「私人間嫌いだから。」と笑いながら言う。

 「人間に関心ないし!自分にも関心ないし!」と笑いながら言う。

 人間に対して言う。実の子供の前でも言う。

 それが失礼だと思わないのは、人間をバカにしているからである。

 人間嫌いにとって、人間はゴキブリと同じだ。

 粗さがしをするために見ている。親も子供の粗さがしをする。

 何かあれば即攻撃する。一人でも多く叩き潰したい。

 そして「人間の中に理想の神様」を求める。

 人間が嫌いだから、人間ではない存在を探す。

 人間には不可能なことを求め、そうでないことは許さない。

 それが真の人間嫌いと言える。

 僕は違う。人間が好きなのでじゃれる。

 勿論向こうもそうであるときだけ、じゃれ合う関係になる。

 お互いに好きになればうまくいく。親しくなりたい相手同士が段々と自然に親しくなる。

 あれは「じゃれる」なのかと、加藤諦三先生の文章で知った。

 そんな表現は思いつかなかった。そんなことは考えたこともなかった。

 僕には表現のしようがなかったのに、さすがは教授だ、と益々尊敬した。

 じゃれてはいけない空気の人がいる。恋人という形式をとってもである。ふざけても平気なのが親しい関係なのに、ふれあいはない。

 きちんと親しくなり、きちんとデートをし、きちんとセックスをする。

 心理的には恋人にはなれない。普段からじゃれ合っている友人が恋人になれる人だ。

 そして親友になれる人だ。

 じゃれ合う関係では、誰かが目の前のものを取ろうとしたらパッと横からそれを取る。

 人間が嫌いな関係では、それを「意地悪をした!」と糾弾する。

 引用元の加藤諦三先生の文章の中に「ふざけることが怒りになる。」と書かれている。
 ふざけてはいけない。安心してじゃれても冗談を言ってもいけない。

 友人でも恋人でも家族でも、どこにいてもきちんとしていなくてはならない。気を抜いてはいけない。

 軍隊なのだから規律に沿った動きをしなくてはならないのだ。

 「我が家軍」の規律に反した人間を糾弾し、一人でも多く自軍の兵士を増やすために生きている活動家でもある。

 家族以外は敵。そして家族は軍隊である。

 じゃれ合う関係では人のものをサッと取ってしまう。

 「あー!とった!」と笑って取り返そうとする。

 「嫌がらせをした!」と本気になって怒らない。そもそも怒りがわかない。

 それが親しい関係である。

 故三島由紀夫氏は、いずれ日本は親が子を殺し、子が親を殺すような時代になると述べたそうだ。

 そしてそうなった。じゃれ合う親しさより、立派な軍人を育てる国になった。

 かつて昭和の初期にも文学の分野で天才たちが未来を予言している。

 そして今、加藤諦三先生も未来を予言している。

 僕がこの数年足らずで見てきた幼児から大学生程度の若者たちを見るに、この状況では加藤諦三先生の予想する未来になっていく可能性は高い。

 惨劇と呼べるほどの事態になりうるだろう。

 ふれあいを知らずに育つ子供が、心の中に優しさなどあるわけがない。

 母親の愛に触れずに育つのだから、愛のない人生を送るしかない。

 愛のあるなしは目に見えないから、一銭の得にもならないので不要という時代だ。

 「なんで人を殺してはいけないんですか?」と少年のような感覚を持つビジネスパーソンが生まれてくるだろうと加藤諦三先生が書かれているが、実際既にそれに近いことは起きている。

 「家族仲良くしたいと思っている」というビジネスパーソンが、そう思っていないのにその言葉を口にする理由を「そう言うのがいいことだと思ってた」と述べる。

 仲良くしたいわけではない。
 だが、そう言葉で言うのがいいことだと思っている。

 思ってもいないことを述べていることに、問題を感じない。
 伴侶にとっては「嘘をつかれた」ことになるとわからない。

 全ては形式だと思っていて、決まったとおりにやることが「良いことだ」と信じている。何がいけないのか本当にわかっていない。真面目で良く言えば純粋であるが、非常に幼児性が高い大人になってしまっている。

 何を聞かれても言い張れば、それが「なっている」だと思っている。

 だから口げんかに拘る。口げんかで押し切って正しいとされたことが事実になると思っている。

 口げんかで何を言っても事実は変わらないとわからない。事実は言葉のやり取りで勝った方が正しくなることだと思っている。

 現実は言葉にしなくても既に存在しているのだから、口げんかの意味はない。

 言葉で事実を「作れる」と思っているから、自分の望むことを言わせることに必死になる。

 幼稚園児の喧嘩である。
 自分が言葉で正しくなることなど拘らないのが成熟した大人である。
 疑問を持たないのに、自分が正しいと言い張ることに拘る。

 そしてその親もまた自分が正しいとされることに拘り、煽てられ肯定されることに喜ぶ。

 たった今、幼児の親である人たちが子供たちをまるで見ていない。だから将来が危険なのだ。

 今の話ではない。将来の話だ。

 僕が「京都の弟」と呼んで可愛がってきた少年も、今は青年にまでなったが順調に病んでいる。

 父は家を出ていき、母親と共に暮らしていた。

 母親には「あんたみたいな出来の悪い息子で、最悪な子育てやった。死んでくれたらせいせいする。」などと罵られ学生時代を過ごした。理不尽な中で親がすべきことを自分がすべきことにされ、それを当然なのだと思い込んで生きていた。

 「兄ちゃん、俺もう死にたい。この家から出ていきたい。兄ちゃんのとこに行ってもいい?」

 と高校生の頃に聞いてきたことがあった。本当に悲惨な目に遭いながら生きていた。

 性格はひねくれているが、あの子が本当は優しい子だと知る人は僕しかいないかもしれないと思えるほど、親には無関心を決め込まれて経済的にもいじめられてきている。

 殆どの親にとって、既に子供は自分のオプションと化している。
 子供ではない。
 子供と言う立場を与えられた、競争のための道具である。

 道具とじゃれる必要はない。良い大学に行き、高給取りの職に就き、親の劣等感を癒すほどの働きをしてくれればいい。

 子供の人生は親の道具である。

 心理的には親子ではないからだ。

 子供たちを大事にしない国は、いずれ滅ぶ。
 今抱えている感情は、やがて戻ってくる。成長した時にどうなるかは、子供のころどう育ってきたかによる。

 このコロナ禍の今、家にいても家族とじゃれている人とそうでない人がいるが、その差はとても大きいのだ。

 目に見えないものを軽んじた結果だ。

 人のせいではない。

 人間関係は家族だけではない。友人や近所の人々、様々な人がいて成り立つのだから。

 「あの人がじゃれるなんてことをしない」「私はそうしたいけど相手にしてくれない」

 と人のせいにする伴侶は、自分自身が相手が好きでじゃれようとしていない。

 たった今「~してくれない」という不満を述べている。

 きちんとじゃれようとする自分は偉いと言いたい。そのくらい幼児性が強い。

 とにかく「私は立派にやっている、不成功は相手の責任だ」と言う。

 相手のせいで不成功な結婚はない。結婚に一切責任のない伴侶はいない。

 最初から「共にやっているものだ」という責任感がない。

 バラバラに考えている。だから失敗している。

 こっちはちゃんとやってるんだから、お前もちゃんとやれ!という軍隊である。

 形の話をしているのであって、本当の夫婦の話ではない。

 こうした人が母親になると「私はちゃんとやったのに、あの子がおかしいからだ。」と子供の問題に無責任になる。

 お前が言ったからやってやったんだ。と責任を押し付けられる。
 子供に判断できないことを判断させ、親が子供の決断に従う。

 「自由に選ばせてあげているのだ」と自分の無責任な行いを合理化する。

 離婚の判断を子供に仰ぐ。どちらが引き取るかの決断を子供に仰ぐ。
 親が自分たちで決められない。

 自分たちの無責任を子供を好きにさせている愛情だと言い張る。

 自分の体裁を繕うために嘘をついていても、何十年先、子供たちが大人になった時にそのしわ寄せは必ずやってくるのだ。

 因果応報なのだから。

 他人を言い負かして勝利したい人は、既に人生に失敗している。

 本人が自分の正しいと思うことを行った人は、失敗しても満足している。だから他人を言い負かしに行かない。
 自分の優等ぶりを誇示しにいかない。

 母親と触れ合った記憶の無い人は、確かに愛など持てないだろう。

 これまでの定説ではそれはどうにもならないことであり、改善の余地もない。
 死ぬまで愛を持たない人として形だけの家族を持たねばならない。

 そしてそうなっていない例外が近年発見され、それが僕含むレジリエンスの子供たちなのだから僕も色々とチャレンジはするが、わからないことだらけである。

 少なくとも今回加藤諦三先生のお話から

 「やはり見えないところで異常なことをやっているんだな」

 と確認できてよかった。

 以前から予想していた通り、「僕が当たり前で口にするほどのことでもないと思っている何かに違いがある」ということだけは、正解だったようだ。

 今はまだ結果にならないが、数十年先を見越して幼児に対しては特に「ふれあいの時期」を体験させることを重視してきた。
 それが必要だとわからない親にとっては「なんの役にも立たないこと」だと思えるだろうが、将来的にその体験を刷り込んでいることは意味があるだろう、と再確認した。

 やはり尊敬する人の考えに触れることは、自分自身を高めるために常に必要であると今回の文章を読み自戒した次第である。